
はじめて、裁判傍聴に行った。
敷居が高いような気がして、興味はあれど行けずにいたが、行ってみると「なんだ、こんなにかんたんに傍聴していいんだ。」と思った。
来年から法律の勉強を始めるので、傍聴にはまた何度か来ようと思った。
大阪地裁で刑事裁判の新件を傍聴。
1時間弱くらいの裁判だった。

被告の人生を、裁判を通してみんなで考える。
そんな時間だった。
他人事ではないと感じた。
被告は再犯だった。
被告への「なぜなぜ分析」のような問いが、弁護士からも検事からも裁判官からも丁寧になされて、被告にとっては、なぜ再犯してしまったのだろうということに向き合わされる辛い時間だったと思う。
でも、情状証人として出廷されたお方や、ご病気がありながら傍聴席に来られている被告のご家族の方が、もっと辛かったのではないか。
被告にはこのような状況になっても帰る場所、迎えてくれる人がいるのだから、社会復帰されますようにと思った。
裁判官から被告への問いかけが、私は一番印象に残った。
なぜ、それをしてはいけないのだと思いますか?という根本的な質問をされていた。被告は少し考え込んでから、いくつかの理由を述べた。裁判官はそれらを一つずつ肯定された。
過去に一度、執行猶予付きの有罪判決を受けていて、してはいけない理由も理解できている。再犯に及ぶ際、その選択が後にどのような結果を生むかもわかっていたはずである。
それをしないでいること、またそれをすることでどうなるか、きちんと天秤に乗せてあなたは考えましたか?と裁判官は被告に、やさしくもなくつめたくもなく突き放した感もない絶妙に落ち着いたトーンで問いかけた。
被告は、考えたか考えなかったかはよく覚えていないようで、明確な回答をされなかった。
不正の3要素である「機会」「動機」「正当化」が揃って起きたことだと思った。「機会」については今後監視を受けることで閉ざされると思うが、「動機」に関してはまだ霧が深くて、掘り下げが必要に思えた。
「動機」については、検事が掘り下げようとしてくれていた。「なんのために、それを」とわかりやすく質問されるも答えが返って来ず、言葉を変えてまた問いかけられていた。
残念ながら、被告は言葉に詰まって、再犯に進んだ際の心の動きについては詳しく語られなかった。反省されているのは伝わってきたが、被告自身がこの公判までの間に事件の振り返りをしきれてはいなかったのではないか。だから、聞かれてもすぐに答えられなかったのではないかと感じた。でも、嘘のつけない人なのだろうとも感じた。口から生まれてきたみたいな喋りが達者な人なら、それらしいストーリーを編み出して話すことはできる。
裁判所を出て少し歩くと、サラダ専門店があり、いいなーと心惹かれたが、裁判傍聴でひとりの人が背負い続けていく十字架の重みをこちらもずっしり感じて身につまされ、まっすぐ家に帰ることにした。

もう少し歩いていくと、私の前の席で傍聴されていた女性二人組が、別の飲食店を覗いておいでだった。もしかすると、ランチ後にまた傍聴予定なのかもしれないと思った。映画を一日に何本か観るのとはわけが違って、完全ノンフィクションで現実の人の人生がかかっている裁判の傍聴となると私は一日に何件もというのはちょっとしんどいかな。
淀屋橋の、いつも鳩が集っているところでいつもの鳩なのか違う鳩なのかはわからないが今日も鳩たちがのんびり平和そうなのでほっこりした。
この夏、ここを何度も通りかかり、鳩を見た。
わしゃっと羽を広げてから折りたたんでぱんぱんに空気を入れたような、細い縦のプリーツの提灯を楕円に膨らませたようなフォルムで、お腹をべたっと地面に預けて置き物になったかのような、なんとも形容し難い座り方の鳩を目撃するたび、くつろぎすぎやろ、かわいすぎやろ、地面熱くないん?大丈夫なん?と心配半分、おかしみ半分の楽しい気持ちになる場所。
今日はヘビーな裁判の後で、いつも以上に鳩たちの集いに癒された気がした。
今回の裁判傍聴では、被告のこれまでの人生、被告の家族の想いなどが言語化されてゆくところから、先月読んだ、三島由紀夫の『金閣寺』を思い出した。
『金閣寺』では、最終的に金閣に火をつけることになる溝口は、ずいぶんと丹念に理屈を講じて自分を犯行に向かわせていった。細かく感情が理路整然と言語化されているものの、あえて言語化せず伏せられている部分もあり、私の頭では解読できないところもあった。こういうことだろうか?と解釈を試みることに文学作品を読む面白さがあるので、すべてが語られていないところに良さがあり、それが作品として正解だと思う。
今回の被告は、なんとなく感じていたであろう違和感や不安を直視しないで済むように、まったく言語化せず現実逃避をされていたように私には感じられた。
面倒なことを考えたくないという気持ちはわかる。
私は、健康診断が嫌いなのだが、それに少し似ているような気がする。
でも、嫌いだからといっても、早めにそれをしておかないと、あとになってわりとえらい目に遭う。
言語化しきるということが大事なのではないかと思った。
健康診断で言えば、数値などを用いて健康状態を可視化することで、現実にまざまざと向き合わさせられ残酷を味わう場合もあるものの、ではどうなればよいかという目標、希望が次に設定されやすくもなるというようなこと。
言語化というのは、問題に光を当てることのように感じる。
光を当てて確かめて不安の正体がはっきりするから、対応方法も考えられるようになる。
『金閣寺』の溝口は犯行に向かっていくための言語化をしていたが、光の当て方というものも考えなくてはならないのだと思う。
言語化して考えをあきらかにすること、それも未来の自分が明るくなる道筋をつけるため。そういう癖をつけておこうと、今回の裁判傍聴から学んだ次第。
健康診断はどうにも好きになれないにしても。