
読書をしないでいると、思考力があきらかに低下したと、焦りを感じたことがある。
一日たったの一頁など亀より遅い歩みでもいいから、読書習慣は持っておきたい。
今年8月に読めたのは3冊だった。
今年の参議院選挙では、ポピュリズムの波が押し寄せて来たと感じさせられるものだったから、何がどうなってこうなるのかと思い手に取った。
この書籍から、イタリアで起きたこと、フランスで起きたこと、ドイツで起きたこと、ハンガリーで起きたこと、イギリスで起きたこと、アメリカで起きたことなどが知れた。日本でも着実に起きてきているよねと印鑑照合しているような読書体験だった。
明らかなフェイク・ニュースであっても、それが嘘か誠かなどはどうでもよく、民衆が密かに抱いている不満、不安、怒りなどをあぶり出し扇動することで票を集められるという現実。
移民問題が右派からも左派からも票を集めることができるテーマなのだということに唸った。
フラットに物事を見ることができないと、アルゴリズムに侵されるだけ侵されて、情報に弄ばれてしまう。
それで、どうすればいいかという指南書ではなかったけれど、私はよく言われているように、両者の主張を聞いて自分の頭で考えることができるかどうかに尽きるだろうと思った。政治、社会について関心を持って、若くて人生これからの甥や姪がこれから安心して暮らせる社会に繋がるような投票先を選ぶ。日頃から国会中継を注視して、選挙に行く。
数年前、英語テキストの中でジョージ・オーウェルの名前を知った。
8月初旬、早朝の回で映画を一本見て、映画館から出るとまだ10時になっていなかった。紀伊國屋書店の開店を待ちながら、これってもしかして朝活というものでは?と気づく。パチンコの開店を待つ人々を何度か見たことがあるが、彼らの方が私よりも朝活ガチ勢に違いない。
長年小説を手にすることから遠ざかっていたが、何かまた読んで様々な感情を味わってみようと物色。書店内というのは、宝探しをさせてくれるところで毎度ワクワクする。文庫本コーナーで、ジョージ・オーウェルの名前より先に、ソウルメイトの生まれ年と同じタイトルが目に入り、蝶々が花の蜜に引き寄せられるように私の手はこの本に止まった。運命を感じ読むことにした。ディストピア小説の代表作との事。ディストピア小説とは、個人の自由が奪われた監視社会など、理想郷とは真逆の世界を描く作品のことらしい。読む前から、幸福で楽しい気持ちにはなれないとわかった。
毎日律儀に1章ずつ読んでいたら、読み終わるまで18日間もかかってしまった。
各パート毎に色を感じた。
- 第一部は灰色。とにかく灰色。主人公、ウィンストンが置かれている社会に自由はないという紹介が続く。最初からわかっていたが、読むのが辛かった。昔読んだ山田詠美の小説で、頭の中は自由だ、頭の中で誰かを殺してもそれは犯罪ではないというような一節があったが、このウィンストンが暮らす社会では、党に対する反感を覚えた時点で思考犯罪になってしまう。常に監視されている。
- 第二部は暗い長いトンネルから抜けたように、いきなり萌葱色にジョーヌ・ミモザにコクリコー、ブルー・ドゥ・マティスと、ゼリービーンズみたいなカラフルな世界だった。水面下での体制への裏切り、ジュリアとの秘密の逢瀬が始まり、ウィンストンの世界が色づき出した。
- 第三部は眩しすぎて直視できず気を失いそうな白。思想は漂白され記憶は書き換えられ、黒は白になり、2+2=5に同意せざるを得なくなる。骨の髄まで、彼らの色に染め尽くされる。殉教は認められない。『一九八四年』のオセアニアでは、人々が自由に考える力を失わせるために、思考の手段である言葉の駆逐が試みられる。ごはんを食べても別に美味しくないだろう。性行為からも悦びは抜き取られ、単なる繁殖のための義務に過ぎなくなる。第一部でウィンストンは「お前はすでに死んでいる」と自分に言い聞かせていた。第二部では、「ぼくたちはもう死んでいる」とジュリアとの密会中に言った。第三部になると、なるほど身体は生きてはいるが、ウィンストンの心はもう死んでいて、言い聞かせる必要がなくなったようだ。あの台詞の奥には、今はこんなだけどいつか革命が起こり、歴史の改竄がなくなり、世界で何が起こっているかを知ることができ、個人個人が思ったことを言える「ふつうの」社会になる可能性が数%でもあるのではと信じて灯した小さな希望の存在を感じた。その灯火を吹き消させられ、ふつうが許されないのがふつうな社会で生きていくには、自分の考えというものが存在してはいけないということなのだなと思った。
- 附録 ニュースピークの諸原理 この部分を読んでいて特に色を感じることはなかったが、こんなに緻密で秀逸な仕上げ方を私は他に知らない。この附録はいったいいつ書かれた設定なのだろう。オールドスピークで書かれているらしい。
ニュースピークの最終的な採用時期が2050年という遅い時期に設定されたのは、主として、翻訳の予備作業にかかる時間を見込んだためであった
(p.464)
附録が書かれた年代が、2050年より前でも後でも、オールドスピークで書かれているのだから、ニュースピークを普及させ人々から思考の機会を根こそぎ刈り取ることはできなかった、あの党も永遠には存続できなかったと読んでいいと思った。タロットカードの審判の世界観の出来事が起こり、陰鬱な世界に自由がやっぱり勝利したのだと信じたい。
私はこの作品を読んでいる時期に邦画のホラー映画を一本観に行ったが、それより『一九八四年』の方がはるかに怖いと感じた。
ホラー映画は隣の席の若い男性が異様に怖がって過呼吸ぎみになっており、その若い男性は同伴の女性に時折小声で怖い、怖いと話しかけては、スクリーンの中で何かあるたびに同伴の女性の肩に何度ももたれかかっていた。同伴の女性から小声で「ちょっと、ビビりすぎ。」と嗜められていた。私は心の中で「彼のは、半分演技かもしれない。彼女に隙あらばよしよしされたいのだろう。上映が始まる前に見ず知らずの私に友人と一緒に観たいから座席を交換してほしいと交渉する勇気があるのだから。あ、でも私がゴリマッチョだったらどうされただろう?」と呟き、長澤まさみさんの完璧な悲鳴が場内に響き渡るのを聞きながらスクリーンを凝視していた。
『新潮文庫プレミアムカバー2025』ということで赤、白、黒、黄、と色見本のようなカバーで選ばれし作品たちが平積みされているのを見つけた。手触りがよくて1冊買いたくなった。安部公房の『砂の女』と太宰治の『人間失格』も気になったが、三島先生の煌びやかな美しい文体が懐かしくなり未読の『金閣寺』にした。(結局、後日、『砂の女』も『人間失格』も買い求めた。)
これは実際に起こった金閣寺放火事件を題材にしたフィクション。金閣を燃やすに至るまでずいぶんとイベントが盛り沢山だった。
感想
はたして溝口は金閣からの呪縛を解いて、生きていけるのだろうか?
終戦を受けての老師の講和
最終章、火が背後に迫る中、唐突に
一向に扉は開かず、金閣に拒まれたと直感するや否や逃げ、山の上で体育座りで金閣が焼け落ちるのを見ながら一服し生きようと思うわけだが、そのあと一体どう生きるというの。
どうなのかなあ、永遠にわからない。でも、生きるって言っていた。ずっと金閣のイメージに邪魔をされて捨てられなかった童貞も娼館で女を買い捨てられたし、ずっと心の中を占めていた金閣を自らの手で消滅させたのだから、溝口の中で化学変化はあったのだろう。現実的に考えて、逃げ果せられないと思うので、じきに捕まって、塀の中で考え続けることになるのだろうと思う。
劣等感を持ってもいいけれど、自分の持ち味と考えてもいい。発想の転換をして力強く生きる者とそれができない、または、しないことを選択する者
主人公、溝口は吃音があり劣等感を抱えていた。
吃りが、最初の
音 を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐 から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、・・・・・・そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(pp.7-8)
ここまでではないけれど、オンライン英会話レッスンで、自分の言いたいことがスラスラ出て来ない時のもどかしさときたら。ほんの少し、気持ちがわかる気がする。でも、英会話レッスンでは言いたいことを察してチャットなどでヒントを出してくれたりもしながら、あたたかく待ってくれるが、溝口の場合は冷遇されていたのだから、同列に考えるのは失礼にあたる気もして、わかります!と言い切れない。
溝口が大学時代に出会う柏木は先天性内飜足のため歩行が困難だが、それを個性にして女性を何度も惹きつける。柏木は親切にもそれを溝口に教えたはずだが、溝口は劣等感を拭えないでいた。自分は幸福になってはいけないという思い込みを持ち続けて、自分で自分に呪いをかけているように見えた。
もう一人の友人、中学時代に出会う鶴川は、溝口の吃音をいっさい気にしない。
鶴川の台詞を読んでいると、私の脳内では高橋一生さんが鶴川を演じてくださっており、鶴川が出てくるところになると、高橋一生さん来た!と思うのだった。
鶴川はえもいわれぬやさしい微笑をうかべた。そしてこう言った。
「だって僕、そんなことはちっとも気にならない
性質 なんだよ」私は驚いた。田舎の荒っぽい環境で育った私は、この種のやさしさを知らなかった。私という存在から吃りを差引いて、なお私でありうるという発見を、鶴川のやさしさが私に教えた。私はすっぱりと裸かにされた快さを隈なく味わった。鶴川の長い睫にふちどられた目は、私から吃りだけを漉し取って、私を受け容れていた。それまでの私はといえば、吃りであることを無視されることは、私という存在を抹殺されることだ、と奇妙に信じ込んでいたのだから。
(pp.56-57)
勝手に自分で抱いたイメージに振り回されるのは
溝口は父親から、「金閣ほど美しいものは地上にない」と幼少期から教え込まれて、自身でも金閣の非の打ちどころのない美のイメージを創り上げていく。そんなことある?と思ったが、溝口の母親も、出会う女たちも、読んでいて「ちょっといただけないな」と首を傾げたくなる部分が多く、生身の女性がこれでは金閣により傾倒してしまうのも致し方ないと思った。
私の考えでは、現実に手に入らないものなど、存在していないのと同じとして、推し活の対象が存在しない。でも、溝口の場合、金閣は目の前にあるから苦しいよなと思った。
溝口は、吃音により外界に手を伸ばしてもうまく届かないから、自分は理解してもらえないから、自分は他人からよく思われていないから、自分がどのような人物とまわりに思われているかを見定めて、その人物像にわざわざ自分を落とし込んでいるように感じた。平和で生きやすいように自分のペルソナを設定して、そのように振る舞う自由もあり、卑屈にならなくてよいのにと思った。そちらの方が、まわりにも自分にもやさしい生き方だろう。
金閣との心中を夢想する溝口
空襲で美しい金閣とともに醜い溝口自身も焼き払われてしまいたいと夢想していた。
般若心経の実践を不可抗力によって叶えられたしと願っているように私には映った。
美しい金閣が燃えて灰になるなら、灰=金閣となる。溝口自身も一緒に灰になれば、灰=金閣=溝口自身となる。灰になってしまえば、煩悩を創り出していたものが無くなる。「南泉斬猫」で猫という煩悩の根源を絶つために猫を斬り捨てたように。そういう理屈なのかな。でも、他にもっと平和的な解決方法はなかったの?なんのために寺で修行しているの?
溝口の母親は現実主義
溝口は
「もう京都に空襲はあらへん」と言い、さらには、「老師に可愛がってもらい、寺の後取りにならなあかん」と言う。
後取りに指名されれば金閣は自分のものになるではないかと溝口は野心を持つ。
夢想と野心を行ったり来たりして、不安定。
日本が敗戦。夢想が崩れ去る。絶望。
自ら「金閣を焼かなければならぬ」と考えるようになる溝口。でも、これが、すぐに焼き払わないのだ。老師から放逐された挙句に決行に至る道を計画する。その種まきとしての借金、費消、学業放棄。犯行に及ばざるを得ない状態になるまで、自ら
老師も溝口もなぜか直球を投げない
老師との関係に、溝口はずっと何かを期待していたと思う。
老師の怒りを買うでもなんでもいいから気にかけてもらいたいとしか思えなかった。
老師はすべて見抜いていたはず。そうでなければ、老師としてはめずらしく開園前の金閣のほとりを散歩し、ひとり夕佳亭へ向かう石段を登ってゆき、
老師も溝口も、もっと言葉で意思疎通を図ればよかったのではないか?
終盤、老師と僧堂の友であった福井県龍法寺の住職、桑井禅海和尚が老師を訪ねて来るが、この和尚と溝口のやりとりを聞いていると、和尚はかなり明るく率直でわかりやすいことを言ってくれる。この和尚の下で溝口が学べたなら、暗い方向へと自身を追いやることをせずに済んだのではないかと思った。
三島先生の美文
しかし、三島先生の美しい文体は、暗い話を描いていても、フォーレのドリー組曲作品56:Ⅱ.ミ・ア・ウのような明るさを感じて読みやすい。 日本語が美しい。日本語が母語であることに感謝する。普段自分が使う日本語と本当に同じ言葉なのだろうかと思うことがしばしば。美しい言葉をパズルのように組み合わせて、登場人物の心の繊細な動きを浮かび上がらせる。なぜ、作家はそんなことができるのだろうと不思議に思う。
文学作品から長年遠ざかっていたが、またちょくちょく読んでいきたい。