
9月は、初読5冊。
『キッチン』『満月ーキッチン2』『ムーンライト・シャドウ』の3作品収録。
約200頁程度で、読みやすくてストレスなくするする読めた。
なんだかサプリメントみたいな小説。
すごくやさしい世界。
3作品とも、大切な人を亡くして喪失感の暗い海の底に沈んでしまった人たちを淡い透明水彩で描いているような印象。
その人の不在が、どんなに私を苦しめるか。
どうして生きていけるというのだろうか。
洋楽でよくある、Ⅰcan't live without you.とかHow do I live without you?とかを身をもって体験してしまった時は、辛すぎる。
それだけ心にぽっかり大きな穴が開くぐらい愛する存在に出逢えたということは、奇跡的なことで感謝しかないのだが、どーんと落ちたばかりの時には、悲しみに溺れる。
そんな深い悲しみの海の底に沈んだエマージェンシーな時も、まわりの人々に気を遣わせないように、ポーカーフェイスを作る。
この本は、そういう人に、やさしく寄り添う。
基本的にいやな人間というのは登場しないけれど、『満月—キッチン2』では、嫉妬にかられた女が主人公、みかげの職場にアポイントメントなしで乗り込んでくる。
ほんのり恋愛要素を入れられていて、読んでいると頭の中で少女漫画のコマ割りが思い浮かんでくるのだけれど、実際には少女漫画化されてほしくないと思う。なんて私は身勝手なのでしょう。
吉本先生の著書はかなり昔に『アムリタ』と『夢について』を読んだきりだったが、ふとやさしい気持ちになりたい時に、また読んでみたい。
たった3日間の話なのに、特濃。
初潮を迎えたり、女らしいカーヴィなカラダに変わっていく時期をこれから迎えるであろうカラダはまだ子どもだけれど、内面にはちゃんと自分の考えを持っている緑子。
緑子の出産以来すっかり胸のボリュームがなくなったと自信を失くし、豊胸手術計画に並々ならぬ情熱を傾けるシングルマザーの巻子。
二人は大阪から、巻子の妹、夏ちゃんが暮らす東京に夏の3日間遊びに来る。
一文が超長く、余白があまりなく字がぎっしり。関西弁。読む人を選ぶ。
女に生まれてきたことでのもやもややあれこれの論点がすべて遠慮なく関西弁でマシンガンのようにぶちまけられてゆく。
思ったことを遠慮なくポンポン言う人や関西弁が苦手な人は読みにくいかも。
銭湯で入れかわり立ちかわり行き来する女たちの胸を遠慮なく巻子が批評する場面では、文章だけでありありと生身の女のカラダのフォルムをこちらに次々と思い浮かべさせる。一緒に巻子たちと自分も銭湯にいる気持ちになった。
豊胸の目的は何か。
緑子は話せないわけではないが、小さなノートを持ち歩いており、筆談で必要最低限のコミュニケーションを取る。本音は日記にしたためている。大人の女性になることへの拒否感があるのに拒否権はない。一番身近で一番頼りになる大人の女性は母親である巻子だが、巻子39歳が自分の見かけのことばかり考えているので、緑子は大人になるということが全然素敵なことだと思えない。でも、緑子は巻子のことが本当は大切。だけど、口を聞きたくなくて筆談に頼る。
巻子はすごくすごく痩せているようなので、何か病気で痩せているのかと心配になった。まず、病院で健康診断を受けて、病気ではないなら、PFCバランスのいい食事をとったり、筋トレは?と思っていたら、夏ちゃんがそれに近いことを巻子にちゃんと聞いてくれていた。夏ちゃんの質問への巻子の回答はあいまいだった。自助努力が嫌というより、豊胸という課金をすることに価値を見出している気がした。
巻子はホステスをしているので、豊胸は資本的支出と言えよう。
終盤、巻子は夏ちゃんたちには告げずに、10年程前に別れたきりの緑子の父親に会いに行き、しばらく不在になった。もしかして、自分の胸の大きさや形が男を繋ぎ留められなかったのではないかと考えて、手術のことを執拗に調べていたのかも。緑子の父親は、子どもができるということに対し、「誰かの意図および作為であるわけがない」とかつて言ったらしいから、会いに行ったところで話にならないと思う。それでも忘れられなくて会いに行ったのか、巻子に何かあった際、緑子のことを父親としてきちんと考えてくれるか確認したくて会いに行ったか、「あの人がゆうたことで今でも覚えてて、今でも訳のわからんことがあるねんな。」、それをもう一度尋ねたくて会いに行ったのではないか。
玉子を割って、泣いて、腹を割って。
緑子は、これからやってくる第二次性徴を思うと、理不尽なことのようにしか思えないようだった。
〇 胸について書きます。あたしは、なかったものがふえてゆく、ふくらんでゆく、ここにふたつあたしには関係なくふくらんで、なんのためにふくらむん。どこからくるの、なんでこのままじゃおれんのか。
(p.79)
自分はこの逆のことを小学3年生くらいから考えて細々と過ごしていた。
小学3年生の頃の担任の先生がある日、胸の検査に行き知ったと、皮膚の下に枝のように張り巡らされているような乳腺というものの成り立ちについて驚きをもって授業で話されていた。その授業後、カラダも小さく気も小さい私に、「先生ね、〇〇さんがちゃんと大きくなるか心配。」と言った。それは心配などではなく呪いだったのだろう。怖い先生にあたっちゃってたなと思う。
私の母親は、女優みたいだといつもちやほやされている美人で、明るくユーモアがあり誰とでもすぐに仲良くなる人で、胸はメロンみたいに大きく、自分は母とは真逆の性格で、母のように誰が見ても女であると感じさせる女になれる気がしなかったから、緑子とは逆の不安を感じていた。でも、男に生まれてこなくてよかった、女でよかったといつも思っていた。
女が意識することなく内包している卵胞たち。
緑子は卵子の事もかなり本で調べたりして、獲得した知識とそれに対する割り切れない思いを日記に綴る。
最後の最後に、緑子が賞味期限の切れた生玉子を次々と自分の頭に叩きつけたのは、望んでもいないのに自分を巻き込もうとしている女性性への抗議、あるいは、割り切れないことを割り切りたいのだという表現に感じた。女性性を一番いい時期に巻き戻そうと四苦八苦している巻子に対して感じる緑子の心配な気持ちが破裂して、生玉子を割らせたとも思う。玉子の海でぐちゃぐちゃになった絵が壮絶で、映画『サブスタンス』がパッと浮かんだ。でもこれが、巻子、緑子の関係改善の突破口になったと思う。
緑子が自分の口で、不完全でもちゃんと巻子に思いを伝えたところは、クララが立った!ぐらいのハイライトだ。
女性性には、受け容れる力や生み出す豊かさがあり、何も恐れる必要などはないのだけれど、もっともらしい言葉で緑子を諭すのではなくて、巻子も玉子を自分にぶつけて、答えがあるように思えてないこともあるねんというようなことを言うところが、巻子のよさだし、関西弁が効果的だった。
二人を送り出して、いつもの一人になった夏ちゃんの姿で終わる場面が、うますぎると思った。
ひとこと感想
めちゃくちゃ面白かった。
あらすじ
教師を生業にしている男が、砂丘に昆虫採集に出掛けたところ、何もしなければ簡単に砂に埋もれてしまう家に男が囚われの身となり、ありとあらゆる方法でなんとか脱出しようとする話。
高校の現代国語で『箱男』を読んだが難解で、『砂の女』の方が私には読みやすかった。
《砂——岩石の破片の集合体。時として磁鉄鉱、
錫石 、まれに砂金等をふくむ。直径2~1/16㎜.》(p.15)
砂という素材を巧みに使い切っていて、安部先生が身をもって体験された話なのだろうか?と思わずにはいられない、蟻地獄の臨場感に熱と渇き。
砂でできた穴底に、今にも壊れそうな家があり、過去、夫と子供を砂くずれで亡くして以来ひとり暮らしの女がそこにいた。男はその家に囚われの身になる。
見る者と見られる者
穴の上から男と女を観察する集落の人々。男が虫かごに捕獲されてしまったようなもので、見る者と見られる者という構図。この構図、今年8月に観た映画『パルテノペ ナポリの宝石』でも感じた。ナポリで生まれ、パルテノペと名付けられた美しい女が大学で人類学を専攻し、様々な世界に置かれている人々を眺め、やがて教授になるという話だった。パルテノペと淡々と眺めるナポリの暗部と明部は、わりと、「ふーん、そうなのかあ。」とジャッジメントなしにこちらも眺めるだけのことが多かった。(考えさせられるシーンもいくつかあったけれど、圧倒的に、こちらもただただ見る者になるための映画だと思った。)『砂の女』は、主には今にも壊れそうな居辛い砂底の家という狭い地点だけにして男と女に様々なドラマが生まれるものだから、より濃く文化人類学の視点を見ることができたように私は感じて、すごいチャレンジングなことしてると驚いた。
冒険しない女、冒険しなくなる男
女が実に働き者で健気でやさしい人物だった。内職をして貯金をしてラジオと鏡を買いたいなんてかわいい夢を語る。何の制約もなければこうなりたい、という夢は抱かない女。ステージを変えようとはせず、現実をそのまま受け入れている女。その部分は、ちょっと古い気がした。女は家にいて家を守るもの、という描かれ方は。
男は、逃げ果せたらラジオを買って送ってやるよと思っている。男と女、それぞれの望みは正反対なのに、なんだかんだ言って、そりが合っているような二人。
男は結局、縄梯子が下りたままになっても帰らない。突然同意なしに閉じ込められ元々自分がいたところに早く帰らなければともがいていたのに、閉じ込められたその地でこその発明、生きがいを男は見出し、元々の自分を消滅させ、帰属場所を移した。
私は、最後はハッピーエンドと受け止めた。
朝井先生の著書をはじめて拝読。何を読もうかなと本屋をうろついて、なんとなく手に取った。どこかで聞いたことがあるタイトルと思ったら、すでに映画化されているらしい。
わかりやすく、高校生たちの話。
2012年4月25日第1刷との事で、iPodやMP3プレイヤーなんて出てくる。当時の最先端?
そういうデバイスは古くなってしまったと思うが、話自体は昔の高校生でも今の高校生でも根本的に変わらないのではないか?と思った。
この作品を読めば、自身の高校生活の記憶が解凍されて蘇ってくると思う。
高校の中にいると、そこだけが世界だと思いがちだけれど実際はそうではないということを押さえておけるといいよと、高校時代の自分に言ってあげたいな。
この作品では、菊池宏樹、小泉風介、沢島亜矢…というようにそれぞれが主人公で、それぞれの視点で語られ、ある地点でリンクするから、私は透明のタロットカードを重ねて見せてもらっているような感覚になり、こんな書き方もあるんだと驚いた。
500頁超えの、いわゆる鈍器本。ずっしり重い。垂先生のされてきた仕事量と仕事内容を思えば当然。語られるエピソードが、読みながら固唾を飲んでしまうスリリングさで、読了した際は「終わってしまった!」と寂しくなった。
この本はちょっと、全日本人が読むべきと思った。
主張しなければならないことはきちんと主張して、自国と相手国、両方にとってプラスになることを模索し提案する。そのためのパイプをちゃんと作っておかなければならない。極めて難しい外交を行ってくださる方々が、日々どれだけの苦労をされているか。その内幕を知ることができる貴重な一冊。
(国と国との外交だけに言えることではないなとも思った。)
私は、日中関係の歩みを知れたこともよかったし、台湾有事のイメージをまったく間違えてしまっていたことがわかり、台湾は親日とばかり思っていたけれど、台湾中くまなくそうというわけではないとわかったことも収穫だった。
ODA政策も、私は海外に支援する前に日本国内にこそもっと目を向けるべきではないかと考えていたが、視野が狭かったと反省した。
垂先生の撮影されるやさしい視点の写真が、モノクロでの掲載だったけれど、とても素敵な作品。
中国でもたくさん友人ができるわけだ。そういう根っこの部分の人間力は、国境を超えるのだと思った。