子役の子どもなどを見ると、
私はその年でそんなかしこいことはできなかったと驚きます。
子ども時代の自分はずっと繭の中にいるような感覚で、
この世界の物事の意味があまりよくわからず、ボーっとしていました。
私はやさしい親に守られ、危機感がなく幸福の只中にいました。
小学生の頃、クラスメイトの女の子から「のろまのろま」と念仏かのように300回程唱えられ続けたことがあります。
何か私によからぬことを言ってくるなあ。なぜ、そんなことを言ってくるのだろう?私のことが嫌いなんだろうなあ、と思いつつ聞き流していました。
でも、それはすでに終わった子ども時代のこと。
大人になれば状況は180度変わるもので、
私は会社では仕事が超早いと言われています。
自分との約束ができない子だった
今年の子どもたちの夏休みは、8月31日までだったようですね。
9月1日、きっと、多くの子どもたちは夏休みの宿題を持参して登校したのだろうと思います。
私は、夏休みの宿題をまともにしない子でした。
夏休みの宿題というものは、
自分で自分に約束をして、それを守ることで自己信頼を積み上げていく機会が与えられているということにまったく気づいていませんでした。
夏休みに入る前に、
どの宿題を何日にするかなどスケジュールを学校で書かされました。
スケジュールを立てることを教えていただいていたのはとても素敵なことだったのに、
その習慣を早くに身につけなかったのはもったいなかった。
私は、せっかくのスケジュール表は忘却の彼方に、
毎日テレビでアニメを見て、アイスクリームを食べて、スイカを食べて、プールに行って、おでんを食べて、桃を食べて、カシオのサンプリングキーボードSK-1でなんとなくで音を作って、広告の裏にまんがを描いて、ワンコと眠りたいだけ眠る。
目的を持たずに自堕落な毎日で夏休みを消費していました。
そんな私が夏休みの宿題でかろうじて用意できたのは、
節水や防火ポスターと絵日記です。
絵を描くことが好きで、
ポスターだけは真面目に取り組んで、
絵日記はぼちぼち書きました。
算数のドリルや読書感想文などは苦手でやらず、
自由課題は、花柄のカゴを編んだりして持ってゆきました。
親は私の不甲斐なさで怒られていた
小学校で私が勉強をサボってばかりいて、
音楽以外の成績が最悪だったので、
母が学校に呼ばれ注意されたことがあります。
両親は、私に何らかの目的意識や集中できることを持たせた方がいいのではないかと考え、
スイミングスクールにでも通ってみるか?と見学に連れて行ってくれたことがありましたが、勉強しなさいとは一度も言いませんでした。
九九を覚えるのが遅かった
小学1年の頃、九九を覚えるためのおもちゃを親が買ってくれて、
私はそのおもちゃが好きでした。
正方形のボディに81個のボタンが付いていて、
ボタンを押すとオレンジ色に点灯し、九九の答えが見えるものでした。
私はその「押すと点灯」に魅了されて、九九を覚えるという目的を無視して楽しんでいました。
小学2年で私以外のクラスメイトたちは早くに九九のテストをパスしていました。
私は、2年生の頃は6の段くらいまでしか覚えられなかったと記憶しています。
私が全部覚えきったのは3年生になってから。
小学2年の担任の先生はとてもおだやかな先生で、授業中に私の動作を観察して、
「丁寧にするから、時間がかかっているのですね。」とやさしく言いました。
私はその言葉を聞いてはじめて、
自分がまわりの子どもより動作が遅いことに気づき、もしかして自分はこのままではいけないのかなあと思いましたが、
先生は特に「みんなと同じように早くできるようにならなければだめです。」等は言わず、私を変えようとはされませんでした。
3年の時は私の担任ではなかったのに、
先生は休み時間に学校の藤棚の下のベンチで私の九九のテストを気長に継続してくださっていました。
はちいちが8、はちにが16…。くしち63、くは72、くく81。
9の段まで私がすっかり暗記して言えるようになるまで、静かに付き合ってくださいました。
その後、私はそろばん教室に通うようになり、九九を覚えたことの便利さを実感しました。
珠算検定や暗算検定をそれぞれ3級までは取得して、中学に入る前にそろばん教室はやめました。
子どもの頃は物覚えがひどく悪かったのですが、
40代になってから日商簿記2級や実用イタリア語検定準2級をいずれも独学で合格できているので、
私は何歳になっても人は新しい能力を習得できるもので、年齢こそ忘却の彼方に追いやってよいと思っています。
勉強をしようと思い始めたのは高校になってから
小学5年で「牛」と「午」の書き分けができず、
「お前はそんなだからだめなんだ。」と先生にみんなの前で言われ、
中学では「really」を「リオリー」と読んでみんなに笑われ、
勉強どうでもいい、義務でやらされるなんてまっぴらだと思って逃げていました。
高校は義務教育ではないのでそんな言い訳は通らず、
やたらと真面目に学校の授業で先生の話を聞くようになりました。
中学では天才?秀才?みたいな勉強のできる子がたくさんいましたが、
私は中の下レベルの高校に進学しましたので、
廊下でコンドームを風船のように膨らませて遊んでいる男子がいたり、
学校の裏庭でタバコの吸い殻が落ちていてどうのという環境でした。
授業中に騒いで勉強をしない人が多かったので、
その高校の中では成績上位に入れました。
社会人になり鍛えられた
高校卒業と同時に地銀に就職しました。
私が配属された支店には女子行員の先輩が3名いました。
そのうち2人の先輩は、結婚による退社が決まっていて、
私は最初の1年で2人の先輩がいなくなった後の隙間を埋める存在にならなければならず、入行式の翌日には右も左もわからない状態で窓口に座らされて、
かなり厳しく指導を受けました。
先輩だけではなく、銀行に来られるお客様も私を鍛えてくださいました。
私は札勘が苦手で遅かったので、お客様から「遅い!」とお𠮟りを受け、
毎晩模擬紙幣で特訓して、早く正確にできるようにしました。
そんなのプロとしてできていて当たり前でしょと思いますが、
当時は、ついこの間まで高校生だったのだからいきなりは無理ですという甘えがありました。
たくさん壁にぶつかりながらつど学んで、
二十歳で大卒の新入社員2名のトレーニーを任されるぐらいに成長しました。
現職はとある金融機関のコールセンターです。
50名程を前にして、商品研修講師をさせていただいたり、
こんな資料があった方がいいと思えば即作成して展開したり、
頼まれた仕事は直ちに仕上げて提出し、もうできたの?と上司に驚かれます。
手元に仕事を溜めてゆとりがなくなるのが嫌なので、
頼まれた仕事も、自分で必要かなと思って取り掛かる仕事も速攻で終わらせます。
かつて、私に「のろまのろま」と呪いの言葉をかけ続けた女の子にはそのご期待に沿えず申し訳ないのですが、
現職ではスケジュールを立てる前に即やり遂げてしまう人になっています。
開花の時期は人それぞれ
私の甥が小学校低学年の頃、
担任の先生が「発達障害ではないか?」と母親である妹に連絡をし、
妹が思い悩む時期がありました。
話を聞くと、私は自分の子ども時代の方がもっとひどい状態だったので、
そんなに騒がなくていいんじゃないかなと言いました。
妹は、「もし、発達障害であったとしても、とても思いやりのあるやさしい子なの。この子の助けになることは親としてしっかりやっていくよ。」と言いました。
その後、学年が変わり担任の先生も変わってからは特に心配されるような話が無く順調に成長。今では甥も高校生です。
時計遺伝子によって花が開く時期が決まるように、
人の成長も同じように時期が来れば開花するものではないかと思います。
そのためには闇雲に努力すればよいのではなくて、
必要最低限の正しい努力をすることだと思います。
私も長い間、会社で人材育成に携わってきて、
開花のタイミングが人によって違うことを知って、
私の小学2年生のときの担任の先生のように「待つこと」が大切だなと感じます。
ただ、会社はいつまでも待ってくれないから、開花を促進させる働きかけが必要となることもあり、匙加減が難しいところです。
終わりに
子どもの時から自分で自分の心の手綱をしっかり握って地に足をつけて大人になってゆける人もいますが、
私のように誠に頼りない不安定なスタートから、社会という加圧トレーニングを通してシャキッとして、中間管理職を経験するにいたることもあるわけで、人生はどこに通じているかわかりません。
人生をあきらめずに、自分の心が求めることを地図として、ゆっくりでも歩いてゆければよいのではないでしょうか。
それには、自分と対話をする時間があるとよさそうです。
ゆっくり美味しいお茶でも飲んで、ひと息入れましょう。