私の母の兄、つまり伯父に神父をしている人がいます。
私が中学生の頃、その伯父に会う機会がありました。
微笑み、人を歓迎し、安心させる雰囲気を常に漂わせる、温かみがどこまでも地平線のように続く穏やかな人でした。
心の風景に、墨汁が滲むような苦い経験をされることなく過ごされて来られたのでしょうか。
童心と言いますか、純粋で目が澄んで輝いている人でした。
私は自分の話をするよりも人の話を聞くことが楽なため、伯父の話に傾聴しました。
そして、筋金入りの聖職者だと感じました。
伯父は、生まれてこの方、恋愛をしたことがないこと、誰とも肉体関係を結んで来なかったこと、試練があったことを私に語りました。
あるシスターに、一時期毎晩誘惑されたことがあったそうです。
神へ仕える身として、シスターを諭し、神父は禁欲の誓いを守った。
このまま死を迎えるまで神への愛を貫き通すという決意を、中学生である私に熱く語られました。それは私の実家の居間で、両親も同席していたため、両親は性が絡む話を思春期の娘に話さないでほしいとやきもきしていました。
私はといえば、小学生の頃から竹宮惠子先生の『風と木の詩』を愛読していましたので、愛欲というものは自然なことと捉え、嫌悪感はなく、ただ、自分が誰かの性愛の対象となることはご勘弁をと思っていました。
伯父が伝えたかったことは、貞操観念を持ってほしいということではなく、自分が心に決めたことを何十年も貫き通す人間がいるということを知ってほしいのだと、私は解釈しました。
伯父に会ったのはその時限りです。
それから時は流れ、私にはいつしか、ヨガ哲学に触れる機会が訪れました。
エクササイズやストレッチとしてだけのヨガで満足していれば良かったのですが、ヨガ哲学の森に分け入りました。
ヨーガ・スートラを読むと、伯父が話していた禁欲のことが出てきました。
ヨガには八支則という8つの段階を経て、サマーディ*1に達するという教えがあります。
その第一段階にヤマ:禁戒、してはいけないことが説かれています。
ヤマの中に、ブラフマチャーリヤ、禁欲があります。
貴重な性エネルギーを大切に保存しなさい、管理しなさいという教えです。
私には、家族以上に家族であり親友であり心から信頼できる濃密な関係の恋人が一人いました。
恋人はヨガなどしませんが、とても知的で精神が安定し、自分軸がしっかりしていて自制心があり、温厚で、誠実で、健康で、私より十歳も若く、イケメンで非の打ち所がない人。
私は、恋人より大事なものなど何もないこと、もっとシンプルに幸福になってもいいこと、恋人を手本にすればわざわざヨガを学ばなくてもいいことに早く気づくべきでしたが、ヨガを究めなくてはならないという強迫観念で視野が狭くなっていました。
禁欲しなくてはならない?彼を愛しているのに彼を拒むのか?
数か月程、暗いトンネルの中にいました。
今思うと、ばかばかしいことで、機会損失です。
幸福になるためにしているヨガで苦しくなるなんて、本末転倒です。
トンネルから抜け出すには時間がかかりましたが、自分なりに答えを出しました。
開き直りのようでしたが、あるものを使って、何が悪いのか?使うためにあるのではないか?
生活に支障が出るような依存状態でもなく、相手をとっかえひっかえするわけでもなく、たった一人の恋人と精神的にも肉体的にも深く通じ合う時間を持つことは、何も悪くないことでむしろ健全。悩む必要などないと考えました。
妄信的に教えに従ってはいけない。自分はどう思うのか、どうしたいのか、それを大事にしなければ、と気づきました。
二十代の頃、恋人があちこちにいる二十代の男性と、奥様妊娠中の三十代の男性と、妻子のある七十代の男性に言い寄られたことがあります。
禁欲の教えは、そういう見境のない人のためにあるのです。
*1:三昧。対象と完全に一体になった状態。悟り